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院史小事典

學習院の歴史についてご紹介します。

成り立ち?由來

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學習院の創立と名稱について

弘化4(1847)年3月、京都に公家の教育機関として開講し、當初は學習所とも稱したが、嘉永2(1849)年4月、孝明天皇より「學習院」の勅額が下賜されて正式名稱となった。

この名稱が論語冒頭の「學而時習之、不亦説乎」(學びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)に基づくことは疑いないとされている。

明治元(1868)年3月に講義を閉じたのち、改稱や改編を経て明治3(1870)年7月、京都の學習院は終わりを告げた。

明治10(1877)年10月、神田錦町において華族學校開業式が行なわれ、明治天皇より校名を?學習院?と賜わり、次いで?學習院?の勅額が再び下賜された。ここに現在の學習院が創立された。

「學習院」の勅額

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學習院の桜花の徽章と制服について

桜花の徽章は本居宣長の「敷島の大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山桜花」の歌の精神をとったもので、明治10(1877)年の創立當初より使用していた。

明治12(1879)年、渡辺洪基次長の立案によって海軍士官型の男子の制服が定められた。

日本の學校で制服を定めたのは學習院が最初である。このときの帽子の徽章は花弁の丸味がやや大ぶりな桜花であったが、明治22(1889)年に改められ、更に平成3(1991)年、現在の桜章のように定められた。

學習院の桜花の徽章と制服

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背嚢(ランドセル)の使用について

學習院で生徒?児童の通學の際に背嚢(ランドセル)を負わせるようになったのは、明治18(1885)年5月からで、學用品攜行のために背嚢を採用したのは、日本では學習院が最初であった。

學校で使用を定める以前から背嚢を負って通學していた生徒もあったようで、學習院では陸軍の背嚢も參考にして正式に定めたと言われている。

背嚢(ランドセル)

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女子部の制服について

女子の服裝規定は、明治18(1885)年、華族女學校開業に先立ち「袴ヲ著シ靴ヲ穿クベシ、表衣ハ隨意トス、袴ハ縞ヲ除クノ外、色目、地紋隨意タルベシ、結髪ハ隨意タリ、西洋服ニテモ苦シカラズ」のような服裝の心得を示しており、あまり厳密でなかったようである。

その後、明治20(1887)年に洋服著用に限ると定められたり、明治22(1889)年には式日以外和服著袴可となるなどの変遷があった後、昭和12(1937)年の服裝規定でほぼ現在の型のセーラー服が制服となった。

女子部の制服
女子部の制服

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學習院院歌の制定について

學習院は明治10(1877)年の創立以來、院歌をもっていなかった。代わって明治天皇より賜わり奧好義が作曲した「修學習業歌」が、開院記念式等で歌われていた。また、華族女學校?女子學習院ともに校歌?院歌がなく、明治20年(1887)年3月に昭憲皇太后から下賜された御歌「金剛石 水は器?と、貞明皇后より大正12年(1923)年6月に下賜された御歌「はなすみれ」、昭和9(1934)年5月に下賜された御歌「月の桂」が歌われていた。

戦後、學習院の健全財政の展望が開けてきた昭和26(1951)年ごろ、第18代安倍能成院長のもとに多方面から院歌制定の要望があった。安倍院長は、學問を好み真理を熱愛し、謙虛にして反省に富み、進んで社會に奉仕し、困難に屈しない意力ある人物を養成したいとして自ら作詞した。信時潔が作曲を行い、昭和26年5月に「學習院院歌」が発表された?

學習院院歌

一 もゆる火(ひ)の火(ほ)中(なか)に死(し)にて また生(あ)るる不(ふ)死(し)鳥(ちょう)のごと
破(や)れさびし廃(はい)墟(きょ)の上(うえ)に たちあがれ新(しん)學(がく)習(しゅう)院(いん)

二 花(はな)は咲(さ)き 花(はな)はうつら(ろ)ふ(う) 過(す)ぎし世(よ)の光(は)栄(え)ふみしめて
まなかひ(い)に世(せ)界(かい)をを(お)さめ 現(げん)実(じつ)を生(い)きてし抜(ぬ)かん

三 なげかめや昔(むかし)を今(いま)と 荒(あら)波(なみ)よ狂(くる)は(わ)ば狂(くる)へ(え)
黒(くろ)雲(くも)よゆくてはとざせ 我(わ)が胸(むね)は希(き)望(ぼう)高(たか)鳴(な)る

四 二(ふた)つなく享(う)けし我(わぎ)命(のち) おのがじし育(そだ)て鍛(きた)へて
もろともに世(よ)にぞ捧(ささ)げん 常(とこ)照(て)らせ真(しん)理(ち)と平(へい)和(わ)


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『教學聖訓』について

明治25(1892)年2月、第4代三浦梧樓院長は、明治4(1871)年以來華族あるいは學習院に賜わった勅語、令旨および國民一般に賜わった勅語、詔書のうち、教學に関するものを『教學聖訓』として編纂し、全教職員?學生に配布した。修身の教材としても使用された。女學部では明治44(1911)年から配布された。

教學聖訓

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目白キャンパスの誕生について

第7代近衞篤麿院長は、中等學科以上の校地として明治29(1896)年9月、北豊島郡高田村大字高田の現在地(目白)を選定した。工事が始まったのは明治39(1906)年7月で、明治41(1908)年8月に現在地に移転した(中等學科、高等學科)?平成20(2008)年8月で移転100年を迎えた。

目白キャンパス

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「女子部」の呼稱について

財団法人學習院発足とともに新しい職制がしかれ、昭和22(1947)年3月31日付で「女子高等科、女子中等科の教育を統括する」女子部長に三谷隆信が任命され、それ以降女子高等科、女子中等科を総稱して「女子部」とすることが慣行となった。

なお、昭和26(1951)年3月に女子部長は、廃止された。


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女子教養學園について

女子の一般的な教養と家庭的技能とを合わせて高める目的で、昭和23(1948)年に開設された。富永惣一教授がその主宰となり、諸教授が講義をするほかに、手蕓?服飾その他の専門家を講師に招いた。各種學校であるこの教養學園は好評で、昭和27(1952)年に閉鎖されるまでに多くの修了生を出し、學習院にとって経済的に寄與するところが大きかった。


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輔仁會の発足について

創立當初より、學生の間には運動関係をはじめ多くの小団體があった。第4代三浦梧樓院長は學生全體を包括する組織の設立を勧め、その結果全學生の中心機関として明治22(1889)年に學習院輔仁會が創設された。會全體の行事として輔仁會大會や陸上運動會が行われた。

會の名は『論語』(顔淵篇)の「君子以文會友、以友輔仁」(君子は文をもって友を會し、友をもって仁をたすく)より選んだものである。


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『輔仁會雑誌』について

明治22(1889)年、輔仁會創立と同時に編纂部?演説部?英語部?仏語部?獨語部?運動部の6部が設けられ、編纂部は翌23(1890)年6月、『輔仁會雑誌』を発刊した。當時、高等中學校の校友會雑誌は山口高等中學校(現在の山口大學経済學部の前身)の『學友』のみで、『輔仁會雑誌』は全國諸學校の校友會雑誌のうち最も古いものの一つとして、平成30(2018)年現在第242號を數えている。

輔仁會雑誌

目白キャンパス

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學習院正門について

明治41(1908)年の目白移転の際につくられた。門標「學習院」の揮毫者は不明であるが、門標 「學習院大學」は昭和35年度の大學卒業生が寄贈したもので、第18代安倍能成院長が揮毫した。

學習院現正門(目白キャンパス)

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中央教室(ピラミッド校舎) について

昭和34(1959)年から始まった學習院第二次整備事業計畫(創立八十五周年記念事業)の一環として、昭和35(1960)年8月、北一號館?南二號館とともに竣工。學習院のシンボルとして話題を呼んだ。學習院新聞社(のちの學習院大學新聞社)は100號を記念して中央教室のニックネームを募集し?ピラミッド教室?を採用し、のちに「ピラミッド校舎」の愛稱で呼ばれるようになった。同校舎の場所に中央教育研究棟を建築することになったため、平成20(2008)年に解體された。現在では、頭頂部が南一號館前に保存されている。

中央教室(ピラミッド校舎)

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乃木館について

明治41(1908)年の目白移転を機に6棟の寄宿舎が建てられ、開寮と同時に第10代乃木希典院長は総寮部內の一室に起臥し、學生と寢食を共にしてその薫陶にあたった。同院長の逝去後、総寮部の一部を「乃木館」として保存し、昭和19(1944)年現在の場所に移築した。

乃木館

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北別館について

明治42(1909)年に久留正道の設計により図書館として建設された。元々は煉瓦造の書庫を持つ比翼型の建物であったが、文學部棟(北二號館)の建設にともない昭和54(1979)年に片翼部が切り離されてL字型となり、現在の場所に移設されて大學史料館として使用されてきた。

北別館

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東別館について

大正2(1913)年に皇族學生のための寮として建設された。山階宮武彥王、秩父宮雍仁親王をはじめとする皇族方が使用された。正面玄関の車寄せは、馬車を寄せることができるよう屋根が高くなっている。

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南一號館について

昭和2(1927)年に理科特別教場として建てられた建物。関東大震災の復興計畫により、西一號館、昭和寮などとともに、鉄筋コンクリートで造られた。実験中に発生する有毒ガスなどを排気する出窓式の「ドラフトチャンバー」が設計當初から設けられていた。戦後は大學理學部研究棟として使用され、現在は教室棟に改修されている。

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西一號館について

昭和5(1930)年に中等科教場として建てられた建物。基本設計を擔當したのは朝香宮邸(現東京都庭園美術館)などを手がけた宮內省內匠寮技師の権藤要吉。現在214教室として使用されている部屋にはストーブ置き場や照明器具が殘り、當時の面影を偲ばせる。

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廄舎について

通路を挾んで左右両側に馬房を設ける大型の廄舎で、明治41(1908)年竣工。當初は目白通りの北側にあったが、関東大震災後の道路拡幅により昭和2(1927)年に現在の場所に移築された。

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血洗いの池について

湧水でできた池で、昔は灌漑に用いられ、水門があった。學習院の構內になってから、堀部安兵衛が血刀を洗ったという伝説ができ、「血洗いの池」と呼ばれるようになった。

血洗いの池

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富士見臺について

西一號館の南側は、江戸時代には「富士見臺」と呼ばれた眺望のすぐれた場所の一つで、富士見茶屋があった。茶屋は珍々亭ともいい、その主人の與八は、俳名を玉川清風といった。多くの風流人がおとずれて四季とりどりの風景を賞讃した。

富士見臺

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芭蕉の句碑について

富士見臺にあり、文化7(1810)年に雑司ケ谷の俳人金子直徳が建てたもので、「目にかゝる時や殊更五月富士」の句が刻んである。

芭蕉の句碑

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青木義比の歌碑について

青木備後守義比は幕末の旗本。義比の死後、かれが好んで逍遙した富士見臺に歌碑が建てられた。碑には、「夏月涼」「山家夏」の二首が刻まれている。

青木義比の歌碑

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御榊壇について

明治42(1909)年、明治天皇が目白の新校舎に行幸になったのを永く記念するため、第10代乃木希典院長が翌年3月、周囲に石を巡らして築いた前方後円風の壇で、円壇の中央に天覧の榊が植えられた。円壇を囲む石の一部は、乃木院長が當時の日本の國境から集めたものである。

御榊壇

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出陣の碑について

昭和19(1944)年度高等科文科の卒業生が殘したもので、死んで「目白ケ丘の桜と咲かむ」という出陣學徒の合言葉を第17代山梨勝之進院長の筆蹟により刻んである。

出征の碑

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道しるべ石について

雑司ケ谷から落合?堀の內方面へ通じる道があった。大學図書館東南の道路際に「是より左ぞうしがや/右ほりの內」、また舊位置から若干動かされたものの中等科?高等科本館前植え込みのなかに「右ぞうしがや/左ほりの內」の道標がある。


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鳩魂碑について

昭和13(1938)年、伝書鳩部員によって建てられたもの。伝書鳩部は昭和6(1931)年、陸軍からフランス製の大型移動鳩舎と約20羽の鳩が贈られたのを機に、伝書鳩研究會として発足した。昭和11(1936)年末、伝書鳩部と改稱し、昭和16(1941)年9月に結成された學習院報國隊には鳩隊として參加。しかし昭和20(1945)年4月13日の空襲で鳩舎は焼失した。


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乃木號碑について

乃木號は、日露戦爭での旅順開城の際、ロシア軍司令官ステッセルが水師営會見記念のため乃木希典大將に贈ったアラビヤ産の名馬壽號を父に持ち、明治44(1911)年に鳥取県の佐伯友文氏の牧場で生まれた。兄弟中で最も壽號に似ているところから、佐伯氏が乃木院長に寄付し、本院で育てられた。昭和12(1937)年27歳で天壽を全うするまで、永い一生を本院馬術のために捧げた功を稱えて同年桜友會有志により、馬場の片隅に「乃木號碑」が建てられた。

乃木號碑

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高円宮憲仁親王記念碑について

平成14(2002)年、スカッシュの最中に47歳の若さで亡くなられた同親王を偲んで、平成15(2003)年11月、輔仁會桜杖會?ホッケー部が建立したもの。親王はスポーツ好きで知られ、日本サッカー協會、日本ホッケー協會など數多くの競技団體の名譽総裁を務められた。碑の文字は犬養康彥氏による。

高円宮憲仁親王記念碑

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「フェニックスの翼」像について

學習院創立125周年を記念して、平成16(2004)年3月26日に西5號館1階エントランスホールに設置されたもので、製作者は彫刻家で東京蕓術大學名譽教授?澄川喜一氏。

戸山キャンパス

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學習院舊正門について

鋳鉄製の門は、明治10(1877)年に學習院が神田錦町に開かれた時、正門として建てられた。

製作は埼玉県川口の鋳物工場で、唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は、明治初年の文明開花時の様式と技術を伝えている。

神田錦町の校舎が明治19(1886)年に焼失した後、この門は學習院の所有を離れたが、卒業生有志の運動によって昭和5(1930)年に目白の本院構內に戻り、さらに昭和25(1950)年に戸山に移され、學習院大學短期大學部(のち學習院女子短期大學?學習院女子大學)および學習院女子中?高等科の正門となった。昭和48(1973)年6月、「學習院舊正門」として重要文化財に指定された。

その後明治通りの拡幅工事に伴う移設を機に、解體?補修が行われ、平成19(2007)年12月に設置が完了し現在の姿となった。

學習院舊正門

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「金剛石 水は器」の御歌碑について

昭和10(1935)年に開校50年の記念事業の一つとして、青山の女子學習院に建立された。昭憲皇太后が明治20(1887)年に華族女學校に下賜された「金剛石 水は器?の御歌が刻まれている。昭和20年(1945)年5月に青山校舎は空襲で被災し、昭和22(1947)年5月に焼け跡から戸山に移された。

「金剛石」「水は器」の御歌碑(戸山キャンパス內)

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時報を告げた鐘について

昭和22(1947)年、宮內省から學習院女子中?高等科に寄贈された鐘が、現在の図書館前植え込みの一隅に建てられた鐘樓に提げられ、昭和27(1952)年まで戸山キャンパスの授業の開始?終了を告げていた。その後使用されなくなってもそのまま置かれていたが、昭和57(1982)年、図書館の新築にともない鐘樓は解體され、鐘は女子中?高等科內に保存された。さらにその後、平成20(2008)年10月20日から平成21(2009)年1月25日まで、本院卒業生?アーティストのオノ?ヨーコ氏による『BELL OF PEACE 平和の鐘』展において使用され、現在再び図書館前の植え込みに設置されている。

時報を告げた鐘

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笠石について

華族女學校が永田町にあったころ、門柱に乗せられた裝飾で、青山移転にともない女子學習院の南通用門に移された。戦後、舊校地(現 秩父宮ラグビー場)に放置されたままになっていたが、昭和49(1974)年に至り戸山に移され、復元されて、現在は図書館前の木陰に置かれている。

笠石(戸山キャンパス內)

四谷キャンパス

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初等科舊正堂について

明治32(1899)年7月竣工、式典などに使用されたが、一時女學部の幼稚園舎としても使われた。昭和12(1937)年に初等科校舎の改築に伴い、千葉県印旛郡遠山村尋常高等小學校(現 成田市立遠山中學校)に移築され、同校の講堂となった。昭和48(1973)年6月に國の重要文化財の指定を受け、現在は千葉県立房総のむら(千葉県印旛郡栄町)に保存されている。

初等科舊正堂

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「近光園」について

初等科では、戦前から南の崖下にあった作業園、近光苑に加えて校地南端の弓場跡に學級園や相撲場を設け、児童の自然観察や遊戯の場としていた。

昭和34(1959)年に作業園、近光苑は売卻され、さらに昭和36(1961)年、校地南端は高速道路用地になったため、高速道路に屋根をのせ盛り土した約1600m²の土地を新たに「近光園」と命名し、昭和40(1965)、41(1966)年に整備して自然観察、遊戯の場ができた。

「近光園」(四谷キャンパス)

その他

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昭和寮について

舊昭和寮は、昭和3(1928)年に舊制高等科學生の寄宿舎として、現在の新宿區下落合2丁目13番28號の敷地に建設された。西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27(1952)年に売卻され、現在は日立目白クラブとして殘されている。同年、同じく下落合2丁目に大學學生のための寮を設け、それ以前の寮の名稱をとり「昭和寮」とした。以後、當初から數えると70年近い歴史を刻み學生に親しまれてきたが、平成9(1997)年3月にその幕を閉じた。

舊昭和寮

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清明寮について

昭和24(1949)年4月に中等科が小金井から戸山に移ったため、中等科の舊光雲寮を高等科生徒が使用することになり、この寮は第18代安倍能成院長によって改めて「清明寮」と名づけられた。

昭和26(1951)年4月、目白校地に皇太子明仁親王のための新寮が完成したのに先立ち、小金井の「清明寮」は閉鎖され、この皇太子寮にその名稱が引き継がれた。皇太子御退寮後は義宮(常陸宮)正仁親王が、大學を卒業される昭和33(1958)年3月まで在寮された。

同年4月以降は中等科教員室や、事務室などに使用し、昭和52(1977)年夏、中等科?高等科本館建設のため取り壊された。

舊清明寮

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院長官舎について

明治42(1909)年に作られ、第10代乃木希典院長時代には皇族寮に転用された。二階には會議室があり、職員會議や學生の集會にも使われた。昭和38(1963)年幼稚園建設の敷地を得るため愛知県犬山市の明治村に移された。

舊院長官舎

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華族女學校の遺蹟碑について

華族女學校のあった永田町の校地跡(現 參議院議長公邸の通用門前)に昭和18(1943)年、常磐會によって建てられた。

華族女學校の遺蹟碑

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「學習院開校の地」碑について

學習院は明治10(1877)年に神田錦町に創設されてから、平成14(2002)年10月に125年を迎えた。125周年の記念事業として、創立125周年記念式典の挙行、記念誌『學習院125年』の刊行に加え、開校の地である神田錦町に建立された。

碑の表面はシンプルに「學習院(華族學校)開校の地」のみで、裏面には學習院の沿革が刻まれている。

「學習院開校の地」の遺蹟碑

イベント

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四大學運動競技大會の発足について

學習院が新制大學の構想を模索し具體化していく段階で、武蔵高等學校?成蹊學園?成城學園?學習院の4校がそれぞれ小規模の大學を設置し、學生の交流、教育?研究施設の相互利用などを行い特色ある総合大學とする東京連合大學が構想された。発案は天野貞祐學習院教授で、4校は7年制の舊制高等學校を母體として、それを新制大學に転換しようと苦慮していた。

連合大學構想は実現しなかったが、このことが機會となって四大學の親睦、交流等を目的とした運動競技大會の開催が決定され、昭和25(1950)年9月から四大學運動競技大會が始まった。


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附屬戦について

本院輔仁會運動関係各部の中等科選手と、東京高等師範學校(戦後東京教育大學、現筑波大學)附屬中學校との定期戦は明治、大正以來の伝統的行事で、戦後初の附屬戦は昭和21(1946)年秋に行なわれた。

昭和22(1947)年、23(1948)年の學制改革により、舊制中等科は新制中等科と新制高等科に二分され、高等科は昭和26(1951)年から、中等科は28(1953)年から総合定期戦として學校行事に組み込まれた。

昭和27(1952)年からは女子高等科と教育大附屬高等學校女子との定期戦が始まり、昭和29(1954)年には、女子中等科と同附屬中等學校女子との定期戦も始まった。昭和40(1965)年から高等科の附屬戦は男女合同の附屬戦となった。

中等科では昭和52(1977)年から、女子中等科では昭和54(1979)年から、各部ごとの対抗戦に改められた。


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學習院の游泳について

學習院の游泳は明治13(1880)年8月、隅田川の両國の中洲で行ったのが始まりである。明治25(1892)年からは神奈川県片瀬の海浜で行われ、大正2(1913)年より前年新設の靜岡県沼津游泳場で行われ、現在に及んでいる。女子學習院は昭和12(1937)年から沼津での臨海教育を開始し、現在も沼津臨海學校として女子中等科で行われている。

學習院游泳

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おもちつきについて

幼稚園では昭和46(1971)年から毎年12月初旬に、日本相撲協會の力士を招き、園児とともに餅つきを行なうことが行事となった。


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學習院大學対甲南大學 運動競技総合定期戦(甲南戦)について

昭和27(1952)年から陸上競技、野球など個々の定期戦は行なわれていた。

昭和31(1956)年になって両大學の総合定期戦が誕生し、現在まで続いている。


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オール學習院の集いについて

オール學習院の集いは、目白キャンパスの近隣地域住民、卒業生、父母保証人との親睦と交流の場として毎年開かれている。

昭和59(1984)年の春に近隣地域住民の花見散策のために実施した構內開放が恒例行事となり、その後開催規模も拡大し、平成3(1991)年度の第5回からは「オール學習院の集い」と名稱を改め、現在に至っている。

お問い合わせ先

學校法人 學習院 総合企畫部 広報課

〒171-8588 東京都豊島區目白1-5-1  TEL : 03-5992-1008(直通)

【平日】 8:40~16:45 / 【土曜】 8:40~12:30

 

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